8/3-18 蓮井幹生写真展「私のネオビンテージプリント」

2024年83()-18(日)
12:00~20:00  (最終日は18時まで)
休廊日:7日(水),13日(火)−15日(木)
レセプション 8月10日(土)17時〜

(3日に予定していましたオープニングは変更になりました。)

目黒にある私の暗室には、今までに撮影した大量のネガとプリントが ほぼ全て保管されている。
先日思い立って、私が40代の頃に制作した作品を引っ張り出して見返した。
当時、私はいつもそこにたまたまあったコップやカトラリー、夕食の食材、 路地に咲く花など身近にあるものを気の赴くままに撮っていた。仕事の撮影でロケに出ても海や川の水面、光の揺らぎや森のマテリアルを その時に手元にあるカメラで、フォーマットなど気にもせずに撮影していた。
そして毎日暗室で現像し、コダックエクタルアやアグファポトリガなどの
クラシックで上質な印画紙に自家調合した現像液で丁寧にプリントしていた。

今回はそれらの銀塩プリントから十数点を選び抜き展示することにした。
デジタルが当たり前になった今、果たして何年も前にアナログで制作した
作品たちは当時と変わらぬ命を今も持ち続けているのだろうか。

写真はプリントされたその瞬間から私の元を離れて旅に出る。

たとえその作品がインクジェットによるものでも銀塩プリントでも同じだが、
その輝きが、時と共に一層増すのはどうも銀塩プリントに思えてならない。
理由は、それらのプリント作品たちを今あらためてここで見つめ直すと、私の当時の想いや記憶などは見事にかなぐり捨てられて、一枚の写真として重みを増し、ただ凛とそこに存在するからだ。

写真とは何か?  記録か記憶か?  アートか否か?  工芸か?
そして何よりも、写真を美しいと感じることってなんなのかを
いまだに私は考え続けている。
吉祥寺駅から散歩するにはちょうどいいところにある 可愛い小さなギャラリーです。ぜひ珈琲でも片手にご高覧いただければ幸いです。
写真家 蓮井幹生

蓮井幹生
https://mikiohasui.com/
https://www.instagram.com/mikiohasui/

1955年東京都出身。
1984年から独学で写真を始め、1988年の個展を機にアートディレクターから写真家へ転向。新潮社の雑誌「03」を始めとするカルチャー系エディトリアルシーンで著名人のポートレイト作品を発表し注目を集める。
1990年代から撮影が続く『PEACE LAND』は作家の世界観の中核を成す作品群であり、作品集の出版を通して継続的な発表が行われ、2009年にフランス国立図書館へ収蔵される。
現在は、長野県茅野市を拠点に作品制作を行う。

【主な活動歴】
2022 個展「詠む写真、とその周辺 −循環と相似形–」 WHYNOT.TOKYO(目黒、東京)
2021 個展「無常花」 WHYNOT.TOKYO(目黒、東京)
2020 個展「For yesterday」 WHYNOT.TOKYO(目黒、東京)
2020 個展「Hidden Landscapes」 WHYNOT.TOKYO(目黒、東京)
2018 企画展「Two Mountains Photography Project 3.0」 ILHAM(クアラルンプール、マレーシア)
2017 企画展「PHOTOGRAPHY NOW」 THE BRICK LANE GALLERY(ロンドン、イギリス)
2013 個展「IMAGINE IN THE LIGHT」COMME des GARCONS BLACK SHOP(ベルリン、ドイツ)
2008 個展「PEACE LAND 2002-2007」spiral(東京、日本)
2002 個展「PEACE LAND 1995-2001」spiral(東京、日本)

【コレクション】
2015 東京工芸大学 写大ギャラリー「GELATIN SILVER SESSION 2007、2008」
2010 フランス国立図書館「詠む写真」
2009 フランス国立図書館「PEACE LAND」

2023年12月 gallery shell102展覧会
「詠む写真 水の循環」蓮井幹生 写真展
https://shell102.com/mikiohasui_yomu/

写真を始めた30代、デザインワークにコンピューターが取り入れられ始めた頃で、デジタルカメラなどまだ姿形もなかった。仕事でも、写真のテイストを決めるのはフィルムとカメラのフォーマットの選択、そしてレンズ。アートディレクターとたくさんのネガフィルムやポジフィルムから、そのトーンを選ぶことから全てははじまる。
まだ仕事としての広告撮影もそんなにあるわけではなかったが、一本の仕事への準備とテスト、そして覚悟が今以上に緊張感を伴っていた。
仕事でも当時はモノクロームの撮影が多く、新聞広告などはとても楽しみな媒体だった。原稿の入稿は一枚の銀塩プリントで、仕上がりをアートディレクターに届けることは最高の楽しみだった。
今でも返却されたそれらの原稿は大切に保管してある。
一方で、毎日空いている時間は作品としての撮影ばかりしていた。その理由は仕事での撮影に備えてのテストやスキルアップのためでもあったが、シンプルに自分の中から湧き出す「写欲」に正直に向き合った結果でもあった。何よりも仕事と作品の間になんの差もなかった。全ては僕の写真であり、自身の写真作法にしたがっていた。
とにかく起きている時間は写真に没頭していた。
まだフィルムも今の五分の一くらいの価格と安く、時間と感材は豊富にあった。

その日は秋刀魚が美味しそうだったので、二尾買った。
夕方、塩焼きにしようとトレーのラップを外そうとした時に、秋刀魚が僕に語りかけてきた。
「ボクをすぐ食べるよりも、先に写真に撮った方が二度美味しいよ」
確かにそうだと内心で納得すると、テーブルの上に黒い布を敷いて、秋刀魚を寝かせた。
僕はライカにビゾフレックスをつけて窓の暗幕カーテンを開け、一枚のレフ板を使って撮影した。
ビゾフレックスのファインダーに写る秋刀魚はもうすでに印画紙に焼かれた時のイメージで浮き上がっていた。
ネガを現像して印画紙にはコダックのエクタルアを選ぶ。秋刀魚の光沢によるコントラストの美しさをできる限り破綻させることなく再現し、そして黒は深海の如く暗くするために、現像はセレクトールソフトとデクトールの二浴現像にした。
翌朝乾燥した印画紙をプレス機でフラットニングした時に、最初の鑑賞者としての僕自身が思った以上に美しく仕上がったプリントを見てまず喜んだ。プリントの喜びとは仕上がりが撮影者のイメージをより上回った時に生まれる。そして益々写真にのめり込むということになる。
秋刀魚は僕によって2度焼かれたのである。

身の回りには様々なモノがあり、外に出れば街には花も植物もあり、仕事の撮影に行けばスタイリストが持ってきた素敵な小物があり、道に落ちているゴミでさえも僕の網膜の上ではモノクロームの写真として認識された。全て黒と白のコントラストに置き換えられて見えている。
生活の中での視界すらも無意識のうちに写真というものに置き換えられていた。
それは、子供がゲームに夢中になるのと何も変わらない。電車の中でも、リビングの食卓でも、学校の机の影でも夢中になってゲームをするのと同じだ。

ひたすら撮って現像して焼き付ける。毎日が楽しすぎる写真の日々だった。だから、そこにはアートとしてのコンセプトも計画性も、その意識すらない。ただその一枚の写真がイメージ通りに、被写体の唯一無二の美しさを僕なりに表現できればそれでいい。それは毎日、画家が手当たり次第にスケッチをするのと似ている。
だが、いつからか(それはおそらくデジタル写真によるところが大きいが)写真はコンテンポラリーアートの重要な表現なのではということに拘り始めた。そして僕はどんどんコンセプトを優先して考えるようになり、一枚の絵画の様なプリントととしての存在感よりも、モニターでの連続するイメージとストーリーを意識するようになった。
そして暗室に入る時間も徐々に少なくなり、今では年に数回しか入らなくなっている。
頭ばかりがどんどんデカくなり、絶えず次の作品のテーマを考えていて、気がつけばココロはどこかに身を潜めてしまっている。
あの秋刀魚は今の僕をどう見るだろうか?なんだか変わってしまったね、と言うだろうか?

僕は初めて自分の手で「作品」と言える写真をプリントした時の感動を今でも忘れてはいない。
しかし、いま取り組んでいるコンセプチャルな作品も大切な僕の一部であり、本能的に制作したい写真でもある。だけど、ここに改めて当時のプリントを見直すと、今では絶対に叶わない工芸的な写真の美しさにハッとするのである。それは、イメージが浮かび上がったと同時に最終的なプリントが見えていたという強さに加えて、前述したように、プリントそのものがイメージを上回ったという結果だと思う。最終的な質感や肌触り、黒の色、それらが表現したかった写真の内容そのものとしっかりリンクしているからこそ、安定した一枚の1作品」として今ここにあるのではないだろうか。
写真がAIというデジタル技術によってますますバーチャルな存在になってゆく。それはそれで新しい写真の価値や役目になると思うが、ひとつ気になることは、イメージの創作が全て人の意識に委ねられると言う点だ。本来、アートの面白さは人のコントロールから外れたところに完成形を見ることだ。写真の美しさは僕だけが生み出すのではなく、露光や現像という過程を含めて化学と自然界の摩訶不思議が生み出すのである。
写真の定着がほとんどインクジェットプリントになった現代、再び過去の作品の様な豊かで変化のあるマテリアルを生み出す感材はもう手に入らない。しかし、それに抗ったところで前進はできない。
だが、写真を撮ると言う行為そのものはデジタルでもアナログでも変わらない。僕はどんなにコンセプトありきの作品であったとしてもブレることなく、カメラで脳裏に浮かぶイメージを正確に現代の技術で表現することが自分にできる写真の基本だと信じている。
この宇宙が包含するすべての「存在」に敬意を表して撮り続け、その美しさの意味をこれからも考え続けていきたいと思う。

蓮井幹生

 

この投稿をInstagramで見る

 

shell102(@gallery_shell102)がシェアした投稿

 

 

この投稿をInstagramで見る

 

shell102(@gallery_shell102)がシェアした投稿

 

この投稿をInstagramで見る

 

shell102(@gallery_shell102)がシェアした投稿

 

この投稿をInstagramで見る

 

shell102(@gallery_shell102)がシェアした投稿

 

この投稿をInstagramで見る

 

shell102(@gallery_shell102)がシェアした投稿

 

この投稿をInstagramで見る

 

shell102(@gallery_shell102)がシェアした投稿

 

この投稿をInstagramで見る

 

shell102(@gallery_shell102)がシェアした投稿

 

この投稿をInstagramで見る

 

shell102(@gallery_shell102)がシェアした投稿

 

この投稿をInstagramで見る

 

shell102(@gallery_shell102)がシェアした投稿